大堂
本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90㎝の木造で平安時代後期の作と思われる立派な尊像です。
また、堂前の梵鐘は暦応3(1340)年の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺42世中岩(円月)の撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖を引くところとなりました。
鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二の脇坊をを供えた大寺であった大堂も、永楽4(1561)年上杉謙信による小田原攻めの時兵火にかかったと伝えられ、今はわずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぎません。
松月院大堂
この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していました。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、「新編武蔵風土記稿壱之十四」によると、南北朝時代の建武・延元の頃1334~40)は、七堂伽藍を供えた大寺院であったので、村人は大堂と称していたそうです。永禄4年(1561)三月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇ことごとく焼き討ちにあって消失したと言われています。
文化11年(1814)2月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西門にして小高き所にあり、即ち石段を登る拾四五段、本尊は座像の弥陀、御長二尺四五寸ばかりと覚ゆ」と紀行文「遊歴雑記」に書いています。