板橋宿3

板橋

この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来すると言われています。板橋の名称は、既に鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。

板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2㎞)の長さがあり、この橋から京寄りを上宿と称し、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。

石神井川

江戸時代の板橋は太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架け替えられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架け替えられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架け替えられたものです。