板橋宿5

平尾の追分

茶色の通りの一番右下部分の「8」が平尾の追分で、旧中山道と国道17号線が交差する三角の部分です。ここから川越街道が分かれて行きました。

今は、石碑などはありません。

板橋宿

日本橋から北へ、中山道第1番目の宿場、東海道・品川宿、日光街道・千住宿、甲州街道・内藤新宿と並び、江戸四宿にあげられている。

中山道を京方面から下ってきた人や荷物はここから江戸市中に、また、ここから中山道へ旅立っていきました。

宿場は南から平尾宿、中宿、上宿で構成され、本陣が一軒、脇本陣が三軒、五十四件の旅篭屋がありました。

加賀藩下屋敷

板橋宿の旧街道に面した町場部分の外は畑と水田が広がり、南東部一帯は二十二満坪(約72.6ha)に及ぶ加賀藩の下屋敷が板橋宿に移ってきたのは、天和3年(1683年)とされます。明治維新により、江戸内の判定や武家地が官有地となった時、加賀藩下屋敷も没収されました。一部の領地は払い下げられましたが、広い敷地は陸軍に移管され、火薬製造所が造られました。これが明示9年(1876年)のことです。

これにより、それまで農耕が主であった板橋にはじめて工場が進出し、後に軍の下請け工場が付近に進出する契機となりました。